GALA

プリントテキスタイルのための開かれた場

横浜 協同組合ギルダ横浜

2010年3月20日 横浜

協同組合ギルダ横浜 事務局長/北澤 克夫

http://www.gilda-yokohama.com/index.html

横浜の歴史

北澤克夫氏は、あまり立派な話ではないと照れながら自分の専門はマーケティングなのでと話し始めた。

高橋:横浜はシルク織物の産地、また輸出港として、江戸時代末期の開港後、発展して来たわけですが、当初の絹織物から捺染へと発展していったその歴史的変遷をお聞かせ下さい。

北澤:絹というならば、先ず蚕の種、そして繭、それから絹糸、一歩進んで絹織物として付加価値付けがなされて来ました。それが明治10年から15年に掛けてのウィーン万博がひとつの契機になったかも知れない。輸入横浜の開港は1859年ですから明治政府が樹立される4年くらい前なのです。その翌年から東京がありますけれども、当時、日本では輸出するものは何にもないわけですから、輸出は主に農産物のお茶。静岡の清水港が開港されていないものですから横浜経由で輸出していました。それで人が集まって来たわけです。いろいろなエピソードがあります。当時、バイヤーの奥さん達が横浜に流れる大岡川、帷子川の水が軟水でとても良いと感じた。おそらく染色に適しているのではないかというようなことをおっしゃったというエピソードがあるくらい、何か染めてみたらどうかという指摘があったと思うのですよ。それで、今チョト話に出た日の丸とかですね、簡単な桜とか、場合によっては富士山芸者ガール的な、簡単なものを手幅に染めて、それが講評であったということが一番の原点ではないでしょうか。但し、その時代は木版技術ですから、大量生産は全然出来ないわけです。一枚一枚、本当に手工業的なものを生産した。そして、そういうものが従来の絵描きさんや職人さん達が、横浜に行けばメシになるという空気になって江戸の職人さん達、例えば版画の職人。それと京都の友禅染の職人さん達と、それから版画は桜の木を彫る訳ですよ。それが出来る職人さん達が鑿一本もってね、まさに職人的な宵越しの銭は持たないスタイルなのですよ。板前さんの渡り職人と同じに、そんな感じでどこからでも集まって来たらしいです。ただ人口数百人の漁村だったわけですから、そこに上の大岡川、帷子川の水流がね、今では想像出来ないような清流であったと想像しているのですよ。そこで刷ったものを洗い流すということで、だんだん栄えて来たのだけれども、そのプロセスにバイヤーさん達がいっぱい居たわけですよ、関内に。彼らの交流もあったりして、もうちょっと何とかならないかということで、京都の職人と工場の職人のコラボレーションが出来んたんじゃないでしょうか。所謂、秩父とか北関東にもいますからね。あるいは新潟にもいるし、というのは急激な都市の発展があり、街になったわけですからね。東京のような都市とはいかないでしょうけど、これらのことが一番初めのスタートだろうと思っています。だからすぐ開港と同時に、パッとスカーフが出た訳じゃない。初めは蚕の種、絹糸、絹織物と。

高橋:それから織物へといく訳ですが、それらは横浜で織られていたのですか。

北澤:いや、織っていません。北関東とか。

高橋:桐生とか秩父とか。

北澤:あるいは京都からも来たと思うのですよ。港がないのだから。

高橋:そうやって少しずつ産業が興っていった。

北澤:そう産業が興って来た。経済地理学的にいえば天然自然の流れがあってね。産
業発展には、そういった自然と人的な関係性があるわけですね。

高橋:自然と人間ですね。

北澤:そういうことです。自然と人間、それと金融ですよね。明治政府が国策として輸出貿易の振興を図ったわけですよね。ということで徹底的にやったのですね。だから京都の歴史からすれば、千年の歴史はないし、地場産業ということになっていますけど、普通の地場産業とは違います。明治以前からのものは、藩政の殿様がやったわけですけれども、横浜は輸出が大型地場産業です。地方にある所謂地場産業とはチョット違う。国を背負う産業ということです。

高橋:国策ということですね。

北澤:そういうことが整って、全て産業を発展させる条件が。

高橋:今でも横浜は立派な街ですよね。奇麗なビルがあって。

北澤:いや、今は凄くないです。全然だめです。

高橋:立派な街ですけどね。

北澤:今は良いところはみんな東京に持っていかれています。後継人材が三代目四代目では飛び抜けたリーダーがいないのです。それはまた後でお話し致しますが。

ハンカチ娘

高橋:以前にハンカチ娘のことを伺い致しました。ハンカチをある方がご覧になって、そこから大判のスカーフが発想される訳ですよね。その辺のお話をハンカチ娘も含めてお聞かせください。

北澤:それはもうずっと後になってからの話ですけどね。

高橋:それでは先ず、ハンカチ娘からお願い致します。

北澤:そのハンカチ娘というのは、人材なのです。職人さん達がドーッと来る中で、
染める背景は木版技術から加工、自著では更紗捺染となっていますが、紙型捺染のことです。木版、紙型、スクリーンと発展してきました。

高橋:スクリーンは大体いつ頃から出て来ましたか。

北澤:明治の終わり頃からじゃないですか。

高橋:そうですか、それはどんな型のものですか。

北澤:非常に初歩的なものですよ。今はナイロン糸です。何ミクロンという細い糸で、紗を作る訳ですが、当時のものは非常に粗いですよね。

高橋:膜というのは、現在ですと感光剤を塗って光で膜を作りますが、それはどのように作っていたのですか。

北澤:それは違いまして、高橋さんの年齢ですとご存知のガリ版刷りガリ版スタイルですよ。あれをスクリーンに貼るのですよ、鑞ですね。

高橋:それは面白い、そうですか。

北澤:それが原点ですよ。昔の先生は、宿題はみなガリ版でコッキリ、コッキリと。

高橋:鑞引きのようになっていたのですか。

北澤:そうです。それを絹糸で作った紗の上に乗っけるでしょ。鑞の部分は染まりませんよね。でも版自体は繋がっていますよね。紙だけだと穴が空いて、切れちゃう。シルク紗は付いているから。

高橋:私達の若い時にもありましたが、鑞紙をカットして、アイロンをかけて作った。ああいう奴ですか。

北澤:そうそう、まさにそうです。専門的なことになりますと、つい最近コメントを書いてくれと頼まれまして工業試験場の人に、それは詳しいですよ。それはそれとして、労働力としての女性が来るということです。それでハンカチを作ると縁縫い、縁縢りをする、大量にハンドメイドで、それで女の人がずいぶん来て、上の中村川の支流に下宿していたものです。悲劇の製糸工場の「ああ野麦峠」、あれは非常に暗いのですが、ハンカチ娘は明るいんです。大分、給料がよかったらしくて。

高橋:あの製糸工場と同じような時代だったのですね。

北澤:そうですね。縁縫い専門でしたが、そんなに長く続かなかったんですよ。シンガーミシンがアメリカから来て。吉川英治が横浜に生まれて、19歳までいたんですけれども「忘れ残りの記」というエッセーにそのことがちょっと書いてあります。

高橋:「忘れ残りの記」ですか。

北澤:これはNHKで朗読されています。そこはまあ作家だから見事な文章でね。売れ残った、または旦那さんから貰ったハンカチを首にまいて闊歩した。ファッションを築き上げていたということが書いてあります。それと伊勢佐木町に芝居小屋があり、今でいうオッカケをしたとかね。休みの日曜日、それなりにコミュニティーがあったみたいです。中村川周辺は、中村川といったってすぐですから横浜ですから。

高橋:その芝居小屋があった街は何処ですか。

北澤:伊勢佐木町。伊勢佐木町ブルースの。

高橋:そのB反といいますか、B品を巻いて闊歩したのですね。

北澤:その頃の風潮では首にハンカチを巻くことはなかったはずです。

高橋:それは斬新だった訳ですね。

北澤:だったでしょうね。

高橋:ということは相当高いものだったのですか。

北澤:いや、そう高いものじゃないですね。今でいうB品ですよ。それを首に巻いて、図柄はともかくとして。

高橋:給料が良かったというのは、国策だったからですか。

北澤:そうそう。

高橋:富岡製糸を国策中の国策だとしても、横浜は何が良かったんですか。

北澤:うん、あの富岡の工場の人達は信州や美濃の製糸工場より良かったんですよ、「ああ野麦峠」などとは違うんです。指導者を育成していたところですから。だからあの悲劇は、地方の、三渓園なんてあるわけですが、絹で巨万の富を築いたなんて、私は無条件に偉いと思ってはいないんです。そういう犠牲のうえに成立している訳ですから、その話になると別の話になっちゃうけれども。

高橋:非常に明るい女性達だったのですね。それだけ労働環境が良かったということでしょうね。

北澤:今でも、人間の労働でいえば一番きつい仕事は沖仲仕の荷役人躯ですよ。インドとか中国とかは、今でもやってますけれどもね。機械の変わりに船に積み込む仕事。沖仲仕の給与に比べて、そんなに低くないと、農家の女中さんに行ったり、農家の仕事をするよりもグーンと良かったという話です。具体的に当時は何文ですよね、何銭になったのかな。

高橋:そういう意味では、幸せな人達ということですね。

北澤:だから、やがては悲劇が来る訳ですよ。

高橋:そうなんですか。

北澤:だって、アメリカからシンガーミシンが輸入されて、あなた方はもういらないよということになるじゃないですか。今のリストラですよ。小さな。

高橋:アメリカからシンガーミシンが入ることによってハンカチ娘がなくなるわけですか。

北澤:今、かろうじて残っているのは手巻きのおばさん達。僕も仕事でしょっちゅう頼みます。機屋、縁縫い屋さんにそういうおばさんがいて、6人とか5人とか、知り合いを持っている訳ですよ。そこでやって貰っていますから、現在でも。それが、その娘達の子供か孫か知りませんけど、みんな老齢化してますね。

高橋:それはもう少数で、特殊で、高級な訳ですね。手で作るものは。

北澤:高級品は今でも手でやります。エスメスなんか手巻きでね。フランス巻きと横浜巻きと逆に巻いていますけどね。気をつけて見て下さい。フランス巻きは表側に山が出てくる、横浜は山が裏側に出る。こういう取り決めなど、どういう理由が分かりませんがね。

高橋:面白い話ですね。ハンカチを海外に持っていった時の様子はどうだったのですか。確か、ウィーン万博は袱紗とか団扇とか刺繍と書いてありますよね。

北澤:そうそう、それと合わせてね。あの女性の飾りハンカチですよ。手巾という。向うはハンカチで手を拭くという習慣がないですから、全部服飾品です。今でも、機能的なことではなく。

高橋:ハンカチは装飾ですか。

北澤:手巾というんです。手の巾22インチ、当時はインチで測ってましたから。55.8cmです。

高橋:今でも55巾というのがありますね。

北澤:いやもうそりゃ、生地がそういう風に出来てくるからね。注文があると50×50というのはどうですかと勧めますからね。

高橋:50×40とか

北澤:50×60とか50×80というと高くつきます。無駄が出るから。まぁ、それはちょっと跳びますが。スカーフは昭和に入ってからですよ。

高橋:大型スカーフですか。

北澤:90×90、36インチです。工場で出来る広さは皆36インチ92cmかな。

高橋:これは昭和に入ってからですか。

大型スカーフへの発展

北澤:当時、そんな大きなものは外国もフランスもあまりなかった。ところがこれもエピソードですが、知り合いのメーカーが外国のファッション雑誌に大判のスカーフを巻いている写真を見て「よし、でかいのをやろう」ということで36インチの生地巾のまま90cm巾のスカーフを作った。外国に出したら大ヒットしたということですね。狡猾なバイヤー達が勧めたかもしれないけれども、いろいろあったと思う。そうこうして、染色技術というのはいま言ったように、海外からの文化と京都の文化と江戸の文化がごちゃごちゃ入って、ジャポニズムが出来ている訳ですから。技術的にもそうなんですよね。

高橋:意匠もそうだけれども、作り方もそうだったということですね。

北澤:だから横浜が得意な斜め台は横浜の考案なの。

高橋:斜めの台は横浜が発祥の地ですか。先日も海外から来た先生が斜めとフラット台のどちらが良いかというので絶対斜め台が良いと話したばかりです。
北澤:それで何故かっていうと、手が届くということと関連するのだけれども、女性が出来るということです。女性の労働力が使える。

高橋:斜め台は女性のための台ですか。

北澤:全てじゃないけれども、やってみたら非常にやり易い。いまエルメスなんかでも平台ですよ。向こう側とこっち側で互い違いに刷ってますよね。

高橋:ヨーロッパの平台ですね。

北澤:それに速いよね。細かくいえば、いろいろありますけれども、染色技術の歴史というのは作り方から染料の開発まで、染料というのは色だけではなく糊も。染めで滲まない方法は糊なんです。アルギン酸ソーダですけどね。職人毎に違って、俺はこうだ、俺はこういう風だと隠していたらしいんですよ。

高橋:今はまだ隠しているんですか。

北澤:その糊の技術。僕がここへ来た時、あまた工場の糊の作り方、あるいはどういう糊をつくるといったことは絶対に教えない。それを平成元年だったかな。堅牢度試験で、ある人と組んで、これからそういう時代じゃない、全部出せと資料を、それをまとめて堅牢度の15色作ったことあるんですけどね。それまでは秘密なんですよ。それはさっきから何回も言うように、京都とか、江戸とかあるいはその他東北で染の歴史があって。

高橋:東北もありですか。

北澤:あるけれども、今は横浜に勤めていた人達が東北で工場をやっているので横浜的ですけどね。

高橋:そういえばそうですね。この前調べたら横浜の工場が郡山の方にも工場を持っていましたが、そういうことですか。

北澤:元々福島などはこっちから行ってますけどね。それから逆にもっと昔、あそこに絹の産地、あのころは旧制中学に染色学科があった。福島の川俣というところに、そこを卒業した人達がこちらに就職していますよ。もう60歳を過ぎた人達がそうです。肝心要の学校の方はもう無くなったけれども。

高橋:ああそうですか。

北澤:そういう人達がまた、向うに帰ってね。仕事を始めたのもいるし、こっちの工場をそっくりもっていった会社もあるし、秋田工場とか北方ラーメンで有名な北方工場とかですね。福島郡山とか、それはまた別の意味でずっとこっちに来てから。実は横浜は日本一水道代が高いんですよ。

高橋:はぁ。

横浜は全国で一番水道代が高い

北澤:水、水、僕は全国の地場産業、あっちこっちにね、繊維も、研究始めたばかりで調べたところ一番高い。ただ大量に使うでしょ。

高橋:そうですね。染色は。

北澤:これが大変で、向うへ行けば地下水は無料。捺染ならまだしも。無地染めの工場なんか、もう大手はね。ギルダの会長がやってる工場ですが、年に7000万円ですよ。工賃の7000万円というのは莫大なものですよ。それも水だけでそれなら、さっさと向うに行ったんですよ。地下水掘ったら無料だよね。なんてね。全く0ではないのだろうけれども、7000万円の三分一でも大したものですよ。こっちに跳んじゃいますけど。

高橋:このアルギン酸ソーダに関しましては著書でちょっと拝見させて頂きましたが絹の細かいパターンを刷る時に糊がそれに柔軟に対応していくのでとかですね、そういうものが必要だったって書いてございましたけれども。

北澤:そうそう

アルギン酸ソーダは救世主

高橋:例えば糊が各工場の秘密であったということですね、アルギン酸ソーダじゃないものがあったのですか。

北澤:膠とかね、なんかいろいろなものを使ったみたいですよ。お米の糊、ありとあらゆるもの。アルギン酸ソーダは海藻なんですよ。もう工業化しちゃったから言いますけど。茨城県の自然博物館からメールが入ってね。実は7月にイベントが茨城県立自然博物館であると。そこで海藻の展示をするんだけれども海の糊、海藻を調べていたら、海藻がスカーフ染めに使われているという話を聞いた。それを展示したい、それを使ったスカーフを貸してくれというから。僕も貸すのは訳ないけれども、アルギン酸ソーダはどういうものであるかということをパネルにして掛けたらどうかと提案した。先方はそれが出来れば嬉しいですということで、A4の文章を書いて送りました。

高橋:そうですか。

北澤:出来上がって、技術屋に聞いたら、もうほとんど使用する全ての糊にはこれを使っていると言いました。

高橋:私共の大学でもですね、これを使用するようになって、反応染料の発色が抜群に良くなっています。

北澤:ウン、反応染料に一番良いそうです。

高橋:八王子の地元の工場の方がそれを大学に紹介して下さって、本当に色が奇麗になりました。

北澤:だから酸性染料にもいいし、全てにいいんですけどね。それでなければ仕事にならないですよ。それはもうかなり前からですけどね。

横浜が発祥の技術、設備

高橋:設備は斜め台が出て参りましたが、そこでひとつは、先日にお伺い致しました時に北澤さんから、型もやはり横浜なんだという話がありました。その横浜の型の特徴といいますか、そういうものをお伺い出来ますでしょうか。

北澤:ウンちょっと一言ね。捺染の斜めだけじゃなくて長さね。写真で見れば分かりますけどね。何があると思います。

高橋:50mくらいですか、100m?

北澤:正確には45m。やく50m、何故かというと絹製品は一匹二匹と数えます。これは国際語になっていますよね。そして一匹は50ヤード、メートルに直すと45m、半分にして25ヤード、それが二台あるということは一匹分ということです。

高橋:いろいろと合理的に行われているんですね。

北澤:モノ作りの智恵があるんです。

高橋:ああもうひとつ。このガイドが凄いですよね。当初のガイドのことが本に書いてございました。このガイドのない時代は大変だったと思います。こうすることによって直接ガイドが台につきますから。

北澤:俗にいうポイントですよね。僕もよく分かんないんですよ。現場で見ても、ここに置いて刷るのでしょ。次にここを持ってここにポイントが付いてるんですよね。作る前にこれを調整して、測るんですよ、そしてこれを固定するんですよ。これをやると、何分の一ミリも狂わないように刷ってるんですね。2回目以降は狂わない。やってる当人は当たり前、僕はすっかり説明聞いても分からない。

高橋:これは横浜の発明らしくて、凄いですね。

北澤:版画だったら、目の確認をやるんですよね。おそらく、バレンとかを使用して刷毛ですって、また違う版を持って来て、1mか2m狂うのが当たり前。

高橋:その点ヨーロッパのプリントは結構狂ってますよ。北欧のものなんてあまり気にしませんよね。

多くの智恵が混合

北澤:誰が説明したとかじゃなくてね、一番初めにいったように総合的なコラボレーションですよ。あちこちの、だから横浜の人間というのは混血だね。

高橋:いろいろなところから集まって来ているんですね。いろいろない智恵があるわけですね。

北澤:日本で一番、外国の文化がね、欧米の文化が一番速く入って来た。京都とか江戸文化がゴチャゴチャになったのがジャポニズムですから、それが成功してウィーン万博に出した出品はスカーフじゃない訳ですよ、ガウンとか扇子とかジャポニズムですよ。ごちゃごちゃ文化だから。あっちこっちから借りて来て作ってる訳だから、悪くいえば。良くいえば智恵でしょうけどね。

高橋:そのガウンというのも、ここで作って出したのですか。横浜はゴージャスな感じですね。

横浜がシルク輸出で発展したもうひとつの理由

北澤:スカーフよりも、そっちの方がメインだったんじゃないですか。洋服の元になる服地ね、それとね、運が良いのは、ちょっと戻りますけれど、この明治のちょうど明治維新の4年前にヨーロッパで、お蚕さんが流行病で全滅しちゃった。フランスの桑畑も、だからフランス貴族は無くなったけれども上流階級が絹とか、着るものが無くなった。そこに知らない東の国から持って来たのが、誠に値段はそこそこだし、素晴らしいなということで大ヒットした。これがなければそんな上手く行かなかったと思います。

高橋:そうですか。

北澤:向うにないね、絹を作っていたから、緻密さからいえば日本製絹は素晴らしい訳ですね。今も中国から来るのを見ても、もの足りないですよ。

高橋:もともと持っていた繊細さが決め手ですね。

北澤:だから純国産の蚕から糸がとれるから、全部日本で作った絹をね。作った人は、それで商標を登録した。『和金』という名前とくっつけた。それは伝説によれば卑弥呼が随の国からの使者が来てね、使者はお土産をもっていく。絹製品も持ってむこうに向かうんですけど、それが名前の由来です。

ライセンス生産が齎した国内空洞化

北澤:ライセンスを持っているのが一番強いですよね。ディオールにしろ、サンローランにしろ、100や200じゃあないですね。ありとあらゆるブランドが横浜でプリントを作っていても、横浜の権利は何もない。ただ作れ、そして作っただけ、横浜らしさのオリジナリティー、横浜でしかないという技術を持ちながら、横浜を冠したスカーフが出来なかった。外国のああいうブランドは誠に商売がうまい。日本中の人が名前を知ったというと、もうお役御免ですよ。日本の商社にしたって、我々にしたって。彼等は自分たちが作ったスカーフを持って来ても売れるということで、契約が10年とか15年だったので、バブルが崩壊したころと一致してね、一斉に契約が切れる。おわれば契約しない再交渉の時代を迎えた。「ご苦労様でした」で再契約しなかった訳ですよ。デパートは売り場を貸すだけでしょ。そういう状態になっちゃった。現在の状態もわりとそういうところがあって、何もいいことばかりじゃないですよ。

高橋:それを中国にもっていってmade in Japanとして売って行くというのは駄目なんですか。

北澤:いやだからね、やっている人もいますよ。縫製は向うでね、こっちで作ってもっていって、日本人がいるんですよ、マネージャーが、そこで縫製してもっていってもMade in Japan にする。紳士服が一番始めに中国に、ダーバンがトップですけど。確かにそのころはねまだ中国はね。僕も毎年一回はいっていたんだけれども。行っても、絹工場を見ることはあるけれども、年々違うんです。ベトナムにも行って来ました。何年か前に。これはまた凄いですね。平均年齢が20歳切っていますから。マネージャーが一人、後の3人は女性でした。皆は30歳そこそこかな、一人は法律家、一人は会計、一人はライセンス専門、その上に日本企業の課長クラスのマネージャーがいるわけです。あとは二十歳前の女工が、国民性はベトナムのひとはマメだっていうけど、皆、板の間を裸足でね。刺繍なんかも流れ作業でやっていました。それはどうにもならないですよ、敵わない。大量生産では。

高橋:そうなりますと、日本は現在のような老人国家になってしまったけれども、そうするとこれからはどうなりますか。

北澤:だから僕のなまいきな言い方をすれば、任務としてね、横浜に紛れ込んじゃって、こういうことになっちゃったから、なんとしても火は消したくないと。今まで述べて来た火の量は少なくても、ひとつ考えるものがあって、幸いこの工場の連中も非常に前向きなんですよ。そういう意味ではね、火を消したくないという気持ちでいるんだけどね。

高橋:最盛期のどれ位になったでしょうか。

北澤:いやもう、0と言っていいくらいじゃないですか。

高橋:0ですか。

北澤:最盛期のいつ頃

高橋:よくバブルの頃を最盛期とすると間違えてしまうといわれますがバブルちょっと前あたりの工場の生産量、工場の数ですかね。

北澤:輸出ですが400〜500億円くらいの輸出をしておりました。それが2〜3年前の2〜1、5倍、関係しか分かりませんが0に近いです。それも外国でつくったものが通っても統計に乗りますから、何処から何処までが横浜で作られているか分からないです。

高橋:それは凄い。

北澤:これは輸出です。今度は輸出でなくて生産は工場が輸出最盛期から、輸出が駄目になるまで、内地向けで、長く結構つづいたのが75〜80年、これは長く続いた。バブルが崩壊して、または内需のころですね、委託加工、ブランド営業の努力いらないですから。座っていたって言いわけだから、この辺に問屋さんがいっぱいありますよ。けれど、お前ら贅沢なことするなと、その従業員の食堂作る、応接間の改装する、そんな余計なことするな。安くしろという時代があった。そのころは70〜80あったんですよ。それで仕事が来るんですね。今は20切ってますよ。捺染工場だけですよ。

高橋:ただその20以下のところは夢があって、まだやる気はあるのですか。

北澤:スカ—フじゃなくて、それぞれの培った技術をいろいろな服飾品に染めてね、刷るということ。服地初め、様々な服飾品の染めをやっています。アパレルですか、だから今までの流通形態は全く枯れたんですよ。問屋とデパートという問屋は壊滅しちゃったんですよ。ここ2・3年で。だからそれぞれの仕事は我々だけ工場の集まりだから、無い頭で企画を考えて、自らの手で出来るだけ流通を少なくして、直接販売して行くということを目指しています。それがギルダです。

ギルダ横浜のこと

高橋:具体的にギルダはブランドというよりも、ギルダというのは組織した様々なものを迎え入れている。今まで培って来た技術を使って、そしてここから製品を問屋を通さずに売る様なシステム。

北澤:直接、お客に売るということじゃない。小売りは無理ですから、良いようで、悪いですよ。小売りさんに売るとか、一次問屋さんに売るとか、いままで二次三次問屋に売っていたからどうにもならない。

高橋:また一層モノが売れなくなりましたから大変だと思います。そう云う意味では商品企画が重要になるのですか。

北澤:やっぱり商品企画でしょうね。お客さんが何を欲しているのか、難しい問題ですよ。ユニクロなんか偉い。あのお陰で下請け業者がどれくらい泣かされているか。数字が、値段があれだけ下がっているから、どう仕様もないんじゃないですか。しかし、仕事がないから受けざるをえない。仕事がまとまっているからね。技術料を頂くことがなかなか、難しい注文ですけど。次にこういう話をしちゃうと寂しい話になっちゃうんだけど。そういう情熱だとか理想だというと、あんまり皆さん本気に思ってもらえないから、もうこの頃は言わないようにしているけれども、出来るだけ新しいお客のところに行ってね。

金子:いつも、その反発するひととか、その中でなにか描こうってひとはいなかったですか。

北澤:そりゃ、いま言ったように、この問屋ですよ。お前何やるんだと、生意気なこといってと、そりゃ凄かったですよ。ギルダを作る前はしばらく地下運動をやっていたんですよ。名前を挙げたのは5年前くらいですよ。さんざん僕が吊るし上げ食った連中が倒産していきました。そのうち新聞に書かれたりするから分かっちゃってね。それで、俺たちのお陰で皆は食ってんじゃないかと。そういう態度だったですよ。昔はそうじゃなかったですよ。先代は工場を大切にしたものですよ。2代目3代目は全然だめですよ。お坊ちゃんぽくて、商工会議所とかとかそういうことで、こうやっていたんですよ。頭の中はさっき申し上げたように下請けの姿勢が見えるから、僕はひねくれ者だから、頑張ってきたんですよ。工場の連中には黙っていろと言っていたんです。仕事が亡くなるから黙っていろといっていた。そんな話知りませんと。今はそんなことないですけどね。市民権がなかったです。初めは行政は、案件としても別の見方に立ってくれた。そりゃーそうでしょ。自分たちの仕事を辞めて、散々な思いになったわれわれ大手を袖にして挑戦してくるのは、とんでもない話だ。普通の皆がそう思っているからね。お店さん(おたなさん)ていう。先生の立場からすると訳の分からないこの変遷というか変革というかそう云う時代なんですよ。いま、困っちゃうことがあるんですよね。

高橋:ただ、私の専門の繊維だけの問題じゃなくて、その他の業界の地域地場産業に係っていますけれども、同じ問題が起きています。問屋の問題ですとか、それら旧態然としたその地域問屋ですね、やっぱり圧力をかけて来たり。

北澤:日本特有の流通形態がものすごく多いんですよ。

高橋:だから工場さんがいくら良い技術を持っていても、なかなかこのように虐げられちゃう部分がありますね。あれは気の毒です。折角技術開発しても、ですね。なかなかそれを受け入れてもらえないですね。

北澤:販売力がないもんだから、頼るでしょ、出ると頭をはねることしか考えていない。流通形態は大きいですよ。お客に1000円で販売するものの内半分は流通経費です。半分以上がね。4割くらいは小売り屋さんがとりますよね。しょうがないよね、店の前で30〜40%とっちゃう。残りかすが、つくる側、モノ作りに回ってくる。

金子:買う方も高い値段で買うことになる。

北澤:そうなんですよ。僕が言っている主旨は消費者がこういうことが分からなければ、暴動が起きたから、18000円のスカーフが600円から500円で出来るということはどういうことかと、生地代をはらったり、ミシンを入れたり、従って20%くらいですよ。他は流通経費ですよ。ある程度流通も必要ですけどね。二つも三つも入っちゃうから。それで偉そうな顔をするからメーカーが立たない。古い人はこういうことを知っていたけれども、若い人は横浜のデパートで並んでいる素晴らしいものが横浜で作っていることを何も知らない。

金子:若い方達は後継者とかそういう問題とか、いま見たいと思っていてもなかなか今、気を入れられない人達とか。

北澤:当然です。親達を見ているから。真剣になってね。若い人の親と、いま、跡を継いだ人は早いもので60過ぎていますからね。良く言うんですが「俺、何の因果で、親父の仕事をしているのかな」ってしょっちゅういいますよ。メシ食ってると。ギルダの仲間もね。そのまた下の代は懐かないですよ。今のままだから。

金子:こうやってお話を伺うとこりゃなんとか残さないと、とか、何とかやっていかなきゃという、若い人が何か出てくるような感じがするんですが。

北澤:若い人は勿論だけれども、そのリーダー、リーダーシップを握る人がね、出てこないと本当に上手く行かないですよ。だから僕は数少なくても、ぴかりと光れば良いと思っている。たとえ5・6軒でも残って、それがこれを継承して行く、その芽はある。今残っている人達はそれを真剣に考えている。そういう意味では先生方とか、皆で教えて行ってもらいながら、火を消さないように。

高橋:あの我々学校というよりも卒業した人達でやっているので、我々もはっきり販売ルートを確立してですね。それとこちらにご相談するとやり易くなるということですね。そう思うんですよ、ねお互いに、もたれないで。我々もマーケティングをして行く様な形で、上手く接点があると良いなと思っています。こちらの素晴らしい技術とむすびついていけばね。

北澤:あの小売りも、それを望んでいるんですよね。それを提案するところがない。僕らが提案しても資金力がないものだからひとつの試験的スカーフを独自に作ったって。工場から小売りまで大変なお金が掛かるでしょ。本来ならばそれは問屋の仕事であり、問屋っていう商社がやってくれるんだけれども。3割もとられたらどうしようもない。僕は木材専門の仕事をやったけれども、何%ですよ。流通のマージンは5%とか年に一度交渉してね、6%とか、この品物3%でよいとかそれを在庫でリスクを負ってやっていく、この業界は3割2、5分から3割とっちゃうから。それを東京へもっていってたら、全く話にならない。良く僕は冗談で言うんですけど好況の時にね、世界で一流の2億も3億も掛けてもらってね、横浜に横浜のデザインをして横浜のブランドでね。皆共同して作って於けば、良かったかなと。それをサボタージュというか、黙ってて売れて行くって、しょうがない訳ですよ。バブルが終わって更に。

30年間開催したコンテストを中止した理由

高橋:こちらでコンテストをやっていらしたですね。横浜市。

北澤:ないもヘチマも僕が反対して止めたんですよ。スタートはいいんですよ。30年前から、目的はね。デザイナーの育成とか、業界の振興目的。それはそれで組合からのお金を集めて市からちょっと出してやっていたんです。30年間に一人もデザイナーが育たない。おかしいじゃないですか。

高橋:それは面白い話ですね。

北澤:というのはね、販売部門作る人売る人があって産業が成り立つわけ。うるひとのサボタージュなんですよ。売る人はだなってたって良い。問屋から注文するから。余計なことしないという姿勢なんですよ。この人がねグランプリとったり一等賞とったりしたスカーフのデザインをね、買って上げて育ててくれれば良い訳ですよ。賞金だけ上げて以上終わりです。そういうのが続いて、スカーフのイベントの幹部がこの連中ですよ。なんとか委員というのは。はい止めましょうと私が言って。とうとう市の方も気が付いて、パッと止めちゃった。市がお金を出さない。4・5年前かな、これまで何十年もやってね、全然だめなんですよ。そのイベントのリーダーが、その東京のおおきな問屋に出入りしている人だから、地場の人ではないわけですよ。ここで生まれ、ここで育ち。その役所の人なんて地元の人はいないですよ、本当です。

高橋:それはデザイナーの反省点です。もう少し努力しないといけない。賞をとったってことで終わりにしてはいけないですね。

北澤:嫌だけどやるんで、賞を上げてね、いいんだけれどもデザイナーからすれば、喜んだと思いますよ。これはもう世に出ると思った瞬間に賞金で終わりと、僕らは作るから一等賞をとったから100枚作れということで終わっちゃうから全然始まらない。賞を上げる以外に目的がないわけですよ。で縫製でも染めでもお前ら安くしなきゃ中国に出すぞとこういう時代ですから、僕が来たとき、まだね、生きていれば100歳〜90歳代の人達だけれども、幸い僕のところの事務所があの中小企業会館にあって、広かったんですよ。傍に神奈川県の繊維協会てのがあって、そこの役員会やった流れで、終わった後、必ずお茶を飲んでったんですよ。リーダーは大木捺染という会社の先代で、その人が連れて来て、それで僕も勉強したんですよ。工場あっての問屋だというそういう意識だったですよ。あの創業者、あるいは2代又は3代目になったらもう無理もないですよ。その苦労してね。群馬から来た、桐生から来た、丁稚から皆働いてね。英語はしゃべれない。せめてうちの倅には英語くらい勉強させようと思って大学にやって外国に出して、アメリカ留学さした。帰って来てもうこうなっちゃったからね、幸いに会社は大きくなった、そう云うのは今会社やってないですよ。潰れちゃってる。

花畑は探せばあるんですよ。その探し方を考えないといけない。今も外国から受注を受けていますが、その国近辺の市場はおおきな花畑だと思っています。

Written by admin